Dollghters
@dollghters
X(旧Twitter)に疲れたのでこちらにやってきました。2024年11月18日スタート!ドールサイトを運用しており、その他、AIでの画像生成や小説の執筆をしているしがない四十路です。時に、法や政治の話をすることがあります(法律専門職の有資格者なので💦)が、特定の政治思想や立場を主張することはありません。すべてあくまで総論かつ一般論です。よろしくお願いします。
現在ものすごくぶっ飛んだ構想をしているのですが(書くとしても数年単位で先になります💦)、その世界観には、セーラー服の下にスクール水着を着こんでくるずぼらな学生が必要なのですが、その画像がなかなか生成できませんでした。しかし、今般、ついに最適かつ再現性の高いプロンプトに行き当たることができました!相変わらずの妄想世界の吐出ですが、楽しんで頂けると嬉しいです。既出作品はnoteから。 ➡ note.com/ixedu
法と善悪(倫理)の問題は、学者の手慰みのように思われるかもしれませんが、実はそうではありません。法の最大の機能のひとつを上げるとするならば、それは「境界のない無地の地平に境界線を描くことができること」だということができるでしょう。国境はその最たる例です。地球上には国境という線は自然的には全く存在せず、それは地図上と我々の観念の中にしか存在していませんが、しかしわれわれはそれを極めて重要なものとして認識することができるのです。同様に、今後のAI時代、AIやAIの開発企業自体に健全な倫理を求めるのは性善説が過ぎます。たとえ信頼が裏切られてもなお境界を引くことのできる知恵と法制度が必要なのです。
法学の世界には「法は一切の道徳的価値判断から独立しているべきだ」という一見すると驚くような見解があります。法実証主義とか、なかでも極端なものを純粋法学といいますが、これにはこれでちゃんと存在意義があります。「そんなばかな!善悪と無関係な法などあるものか!」と思うかもしれませんが、法実証主義や純粋法学に従って、法と倫理判断を峻別すれば、為政者の独善が法の形式を帯びることを構造的に防ぐことができるという有用な作用があるのです。為政者は時に、自分の都合の良いように、自分の価値観に従う法を作ろうとします。しかしそれは、常に社会として正しい保証はないのです。ですから、独善と法を切離する意味はあるのです。
「正しくない法などあるものか!」と思うかもしれませんが、左側通行などはその典型例で、左側であること自体には何らの正邪の価値もなく、単に皆が守れば事故を極力減らすことができると言うだけのことにすぎません。事実、右側通行を定める法律は世界中にあります。こうした性質を法の調整問題といいます。一方で、詐欺、脅迫、殺人など、道徳的な正邪の直観と直結する事柄も法は扱います。つまり法による規律と言っても単に相互衝突を調整しているだけの層と、道徳・倫理と並走する層があって実に多層的であり、法であるから正しいとは全く言えないのです。いわゆる悪法問題(悪法もまた法なり)の話ともつながる論点です。
法律というのは「どういう行為を選択するとどのような結果がもたらされるか」を理解可能にする機能を有しており、これを法による予見可能性といいます。つまり、つまり法に従っておくと、不測の不利益を被ることを事前に避けることができますが、そのことがすなわち、法は正しいという結論にはならない点に注意が必要です。適法=適正というのは素朴な理解ですが、法の世界では単純にそう図式化できるようには残念ながらできていないのです。そもそも、法は正しくあるべきだという考え方と法は正しさとは分離しているべきだという考え方の間に鋭い対立があり、ドウォーキン以降、一定の解決は見られているものの、議論はまだ絶えてはいません。
ちょっと午後から時間が空いたので『王冠篇』のエピソード04の執筆にとりかかろうと思ったら、ChatGPTさんのエラーレートが上がっているではありませんか!まあ、本文の執筆は全部わたくしがやっているので、ChatGPTがお休みでも書くこと自体はできるのですが、部分部分で誤字脱字を確認していかないと後の推敲が大変すぎるんですよね💦。あと、必要な挿絵を必要なタイミングで生成できないのも地味に困ります。エラーレートの表示が赤のことは最近では珍しいのですが、現在絶賛赤色なので、夕方まで事務仕事を片付けつつ、待ってみようと思います。あふん💦。
薬の効き方が変わったのか、今週は数字が乱れます。 幸い、食事に伴う気分の悪さは随分軽減しているのですが、それでもそんなに食は進みませんし、とにかく急に数字が下がるのがちょっと怖いですね。外出時は用心しないといけません。因果な身体になったものです。 健康は失って初めてその重要性がわかりますね💦。若い頃は本当にあり得ない無理をしてきましたが、それは利息を後に付け替えているだけだという自覚が必要だと思います。その時動くということと、後になってからも健康でいられることはまったく別だということなのでしょう。
恋をすると相手に幸せになって欲しいと思うものです。もちろん、ふたり一緒に幸せになれるのに越したことはありません。でも、まずは、相手に喜んで欲しい、笑顔でいて欲しい、幸せになって欲しいと思うところから始まります。そして、人生にはいろいろなことがあります。予想外のこともたくさん起こります。しかし、最後に、幸せを願ったその相手が結局にして幸せな人生を送っているのだとしたら、それは喜ぶべきことなのだと思います。たとえその隣に自分がいなかったとしても…。そう思うことができれば、失恋も乗り越えられるのかもしれないなぁとそんなふうに思う夏の朝でした。
最近、自分のアホさ加減にゲンナリしますが、まあ仕方ありません。 億劫ですが、あした8時半が来たら病院に連絡します💦。キャップ外すとか基本中の基本じゃんと思いますが、それができなくなるのが年を取るということなんだなろうなぁとおもいます。半年間一度も失敗しなかったのですが💦。あー、やだやだ。
日曜日の朝から早々大失敗です💦。 高い注射薬を、キャップを外さないでボタンを押して液を駄々洩れにするという大ミスをやらかし、「お前はあほか!」と自分で突っ込みたくなりました。医者の処方だからまあいいですが、違法転売(もちろんやっちゃダメです!)とかだと1本20000円からする薬なので、大ショック💦。とりあえず、一か月で考えると1本足りない計算になるので、どうしたらいいか明日病院に電話して聞きます。実費とか言われたら辛い💦。まあ、8000円くらいだとは思いますがそれでもつらい💦。
魔法学部長先生の若い時。 プライベートでは眼鏡をかけています。 彼女の活躍はこちらから! ➡ note.com/ixedu/n/n85e...
「AI生成物に著作権を認めるべきか?」という議論がありますが、保護に値する著作である問えるためには、その発表物がなんらかの「思想または思惟を表現したもの」である必要があります。その点、AI生成物は単なるアルゴリズムに基づく計算結果であり、過去の学習結果の確率的出力にすぎないので、人間の著作物と全く同じ水準で著作権ないし著作性を認めることはナンセンスだと思います。一方で、出力の際にAIに対して与えるプロンプトについては、例えそれが一般言語の集合体にすぎないにしても「こういうものが見たい」という意思の表れであることに間違いはないわけですから、著作性を認めることのできる可能性はあると思います。
「文化とは何か?」と問われたならば、それは究極、「死と有限性の檻に閉じ込められた我々に許された、ほとんど唯一の世界に対するささやかな犯行手段である」ということができると思います。私たちは、いずれ止まることが確定している機械時計の内部部品とは違います。自らの意志で世界を見、そこを流れる時間を感じることができる存在なのです。美しいと感じることができ、善悪を弁識し、好悪を審理すること内的発現性を持ちます。これが文化の本質であり、表現が文化であると言われるためには、表現主体の内的発現性がなければいけないと思うのです。それが、同じ出力であっても、人間由来とシステム由来の差なのだとそう感じます。
非常に残念なことながら、他人の不幸と不安をお金に換えるのは方法論的に容易なので、それに関する不正は後を絶ちません。なぜなら、不幸と不安は外的に惹起することが比較的簡単だからです。というのも、不幸と不安は、生命身体に対する危険・社会的信用の失墜・家族の安全・財産の喪失というように、共通の類型にまとめやすく、攻撃目標を定めやすいからです。一方で、喜びや感謝を外的に喚起することは極めて難しく、まず相手とのニーズが一致する必要があり、ニーズを満たしたうえで満足のいく品質を提供する必要があるなど、成功を得るためのハードルが高いのです。そんなわけで、不安商法などは後を絶たないわけですね。残念です💦。
「報酬を目的にする行為主体を共存的に規律する」ことが法と道徳の究極の目的であり、それは結局、「doの選択的可能性」にどのようにして境界線を引き一定の限度を超えないように社会制度を設計するかという問題なのです。実はこれは、神話の時代に我々がエデンの園で神に課せられたのとまったく同じ問題であり、我々は自由意志に基づいて自律的に自己の行為の可能的範囲を確定することができるが、どうすればそれを自他や環境に対して不可逆の破壊性をもたらす選択肢から遠ざけたまま保つことができるか、という問題なのです。結局我々は、失楽園の後も、ずっと同じ問題が解決できずに苦しんでいるといえるのかもしれません。
法と道徳の関係というのは、基礎法学および法哲学の古くて新しい、しかも最初にして最後の最大の課題です。基礎法学の教科書的には統治権力による強制の有無や成立の手続き性などおよそ5つの論点があるわけですが、それはともかくとして、いずれも、社会及び環境という閉鎖的かつ脱出不能な共存基盤において、それぞれに全く異なる目的と欲求をもつ行為主体をどう共存的に飼いならすか、そのための規律的規範であるという点は共通しています。そして端的には、道徳=倫理は行為のwhat、why(何を、なぜ)であり、法はhow(どのように)なのです。結局、何を/なぜどこまで許し/許さないか、それを社会的にどう実装するかの問題です。
「悪しきAIはあり得るか」とか「悪しきAIをどうとめるか」という問いは、実はあまり意味を持たないと思います。なぜなら、相互の影響によって自己の報酬の多寡が決定する社会的な行為主体にとっては、目的(動機)+能力+手段が揃ったうえで、そこに合理的報酬と自己正当化の可能性が加わると報酬を最大化するために悪徳行為を選択する性向を持つからです(AIの場合はその性向がプログラムとして与えられる得るからです)。つまり、悪しきAIを恐れるのであれば、何が悪しきAIであるかを考えるのではなく、これらの判断過程の「どこにどのような防御弁をおけば、構造的に悪徳の選択を断念させるか」を議論すべきなのだと思います。
民事調停の場面では、必ず、傾聴➡理解➡整理➡言い換え➡再提示➡譲歩可能性の提示という、具体的な解決に結びつくための段取りを踏みながら、両方当事者を平等かつ公平に扱うことが調停人の義務として課されています。これは、民事調停(ADR)という特殊な場面に限ったことではなく、エンジニアリングの場面でも当然に当てはまることです。顧客の言葉を聞き、症状を分析し、回復可能性を慎重に検討したうえで、改善のための提案をするということができなければ、プロではありません。「ああ、そうですか」で済ませて帰ったりしたら、厳しい会社だと、帰社した時点で机が無くなっている可能性すらあり得る話です。
今日、顧客からの相談に対して「ああ、そうですか」と返しただけで何もしない人物を見て、驚きを禁じ得ませんでした。私は、自他ともに認めるへっぽこ人材ですが、裁判所で民事調停員となることのできる資格を持っています(実際に民事調停員となるには、裁判所に空きができる➡推薦を受ける➡裁判所が実施する訓練を所定時間受ける)という面倒な手順を踏む必要がありますが、それでも、その経路にたどり着くために最低限必要な訓練を2年かけて受けています。もし、調停員が、一方当事者の主張を「ああ、そうですか」で流したら、下手をすると一発解任です。最近、正直な話専門職の質が落ちてるんですよね。AIに仕事を奪われるはずです。